
平成29(2017)年春場所、NHK の大相撲中継で、北の富士さんが、今からちょうど50年前、九重部屋が出羽海部屋から独立した直後の、自身の初優勝について、育った部屋への感謝の言葉をしみじみと語っておられた。
長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。
九重部屋独立前夜
実は私の初土俵も、この昭和42(1967)年春場所。当時の師匠は、一代の傑物として知られる8代目出羽海親方(元幕内出羽ノ花。のち武蔵川喜偉理事長)。その親方が7代目の勇退に伴い、推されて継いだ名門部屋。その稽古場はだれもが襟を正さざるを得なくなるような緊張感に満ちていた。
その聡明な頭脳と人間力ゆえに、「元○○」という番付が幅を利かせる社会で、協会幹部として、戦前戦後の動乱期を乗り越え、蔵前国技館建設など、今日の隆盛の基をつくった親方である。
何より大事なものは、真摯に汗を流す力士の稽古。それを見守る親方衆にも真剣な態度が要求される――として、毎日欠かさず早朝から羽織、袴に威儀を正して、稽古場に座り、若手の稽古を見守った。協会あっての部屋、部屋あっての力士という考えを徹底し、親方衆も一丸となって指導に意を尽くした。
その結果、部屋の稽古場には真剣さ、厳しさが張り詰め弟子たちも親方衆の期待をひしひしと感じていた。部屋挙げて力士たちに矜持を持たせたことにより、ほどなくそこから柏戸・大鵬に伍して戦う横綱佐田の山が生まれ、大関北の富士も育った。その佐田の山という大力士の、すさまじいまでの闘志、稽古、横綱としてのあり方を間近に見、大きな刺激を受けることで、小さな体でも頑張った鷲羽山という相撲取りも出てきたのだと思う。
進取の精神にあふれた私たち若手が、この部屋に入って本当に良かった、この親方、この横綱に一生懸命付いていこうと、さらに稽古に打ち込んだのは当然のことだったろう。
最近になって漏れ聞いたことだが、実はその横綱の心境に、陰りが見えたのは、この42年春、たもとを分かった北の富士さんに負けてしまったのが、その一因だったという。
【関連記事】
"私の" - Google ニュース
April 07, 2020 at 10:18AM
https://ift.tt/2UQnMlU
【私の“奇跡の一枚” 連載64】 8代目出羽海親方の威厳と先見の明(ベースボール・マガジン社WEB) - Yahoo!ニュース
"私の" - Google ニュース
https://ift.tt/34YVNCz
Shoes Man Tutorial
Pos News Update
Meme Update
Korean Entertainment News
Japan News Update
Bagikan Berita Ini
0 Response to "【私の“奇跡の一枚” 連載64】 8代目出羽海親方の威厳と先見の明(ベースボール・マガジン社WEB) - Yahoo!ニュース"
Post a Comment