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<私の戦争 戦後75年>防空壕内の光景、地獄でした - 神戸新聞

 1945(昭和20)年8月6日、広島に世界で初めて原爆が投下され、同9日には長崎にも落とされた。一瞬にしてまちは壊滅。計約21万人が亡くなったとされ、生き残った人たちも原爆症に苦しんだ。連載「私の戦争 戦後75年」は原爆編として、現在は兵庫県の東播地域で暮らす被爆者5人の体験を紹介する。

     ◇     ◇

■加古川市 福田昭二さん(79)

 全身が焼けただれ、ほとんど息をしていない人たちが、担架に乗せられ、次々と運ばれてきました。髪の毛は焦げ、服もぼろぼろです。防空壕(ごう)の中を、裸電球が薄暗く照らしていました。4歳だった私は、震えながら、隅の岩に座っているしかありませんでした。

 長崎市に原爆が落とされてから2日後のことです。

 一緒に住んでいた母と姉は無事でしたが、食べる物がなく、幼い私だけなら何かもらえるかもしれないと、一人で近くの諏訪神社の山裾を掘った防空壕に入っていました。

 運ばれてくる人たちは、皮膚が垂れ下がり、全身が真っ赤でした。木で作った簡単なベッドに寝かされ、救護の人が何か話し掛けていましたが、ほとんど返事もしていないようでした。

 20人くらい入れば、いっぱいになるような防空壕。見たくなくても、数メートル先には何人も寝かされていて、目に入ってしまう。裸電球は時々切れて、明滅していました。

 恐怖なんてもんじゃない。地獄でした。

 朝起きれば、寝かされていた人たちはいなくなっていました。近くの小学校で火葬されたと聞きました。そしてまた、別の瀕死(ひんし)の人たちが運ばれてくる。何日も、その繰り返しでした。

    ◇

 昭和20(1945)年8月9日、爆心地から約2・5キロ離れた長崎市の住宅街で、被爆しました。朝に空襲警報が鳴り、3歳上の姉に手を引かれ、家から300メートルほど離れた建物の地下壕に避難しました。

 「ドーン」と大きな爆発音がして、地下壕全体が揺れ、電気が消えました。50人くらいいましたが、誰も何も話しませんでした。

 しばらくたって外に出ると、全身が焼けただれた人たちが、こちらに歩いてきます。「水をくれ、水をくれ」とうめきながら。

 爆心地の方から、壕の近くを流れる中島川の水を求め、坂道を下りてきていたのです。何人も何人もやってきます。ただ恐ろしくて、家に急いで帰りました。

    ◇

 8月15日は、諏訪神社の防空壕で迎えました。よく晴れた日でした。境内の一隅に20人くらい集まって、ラジオで玉音放送を聞きました。戦争が終わった、というのは分かりました。

 誰かが大声で「バンザイ」と言うと、ほかの人たちも「バンザイ」と叫び始め、境内に響きました。まるで世の中が一変したような気がしましたね。もう、つらい目に遭わなくてもいいんだと思いました。

 その日、婦人会の炊き出しで白米のおにぎりをもらいました。涙が出るほど、おいしかったですね。今でも記憶に残っています。

 現在は小中学校で被爆体験の語り部をしています。何があったかを知らなければ、今の平和を感謝することはできません。多くの人に伝えていきたいです。(聞き手・斉藤正志)

【ふくだ・しょうじ】1941(昭和16)年、長崎市生まれ。19歳で神戸市に移り住み、運送会社で15年間働いた後、生命保険会社に勤務。1男1女に恵まれた。加古川市原爆被爆者の会会長を務める。

【長崎の原爆被害】1945(昭和20)年8月9日、米爆撃機ボックス・カーは福岡県小倉市(現北九州市)を第1目標としたが、煙やもやが立ちこめていたため断念。午前11時2分、第2目標の長崎市に原爆を投下した。当時の人口約24万人のうち、死者は約7万4千人、重軽傷者は約7万5千人に上り、約1万3千戸が全焼・全壊したとされる。

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