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<私の戦争 戦後75年>母と再会、抱き合って泣いた - 神戸新聞

 1945(昭和20)年8月6日、広島に世界で初めて原爆が投下され、同9日には長崎にも落とされた。一瞬にしてまちは壊滅。計約21万人が亡くなったとされ、生き残った人たちも原爆症に苦しんだ。連載「私の戦争 戦後75年」は原爆編として、現在は東播地域で暮らす被爆者5人の体験を紹介する。

     ◇     ◇

■兵庫県加古川市 狩野重治さん(92)

 お母さんは、お父さんは、どうなったのか。昭和20(1945)年8月10日、広島駅を降りた時、目の前の光景にがくぜんとしました。

 見渡す限りの焼け野原。立ち並んでいた住宅や商店は何もない。遠くに、見覚えのある中国新聞社の社屋や百貨店の福屋が、黒く焦げた姿で見えました。

 原爆投下時、17歳だった私は、新潟県にある村松陸軍少年通信兵学校に通っていました。広島の被害を知ったのは、8月8日ごろの新聞です。まちが壊滅したことを伝えていました。

 広島市には両親が住んでいる。気が気ではなくて、班長に相談すると、「学校には内密で、俺が責任を取るから行ってこい」と言われ、米5升を用意してくれました。

 広島駅からは路面電車の線路沿いを、自宅のあった観音本町まで徒歩で急ぎました。

 幼い頃、階段の手すりを滑り台のようにして滑って遊び、よく怒られた思い出のある広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)は、骨組みだけになっている。相生橋は欄干が倒れ、友達の家も、映画館も、何もかもなくなっていました。

 たどり着いた自宅は焼け跡になっており、れんがの上に風呂釜だけが残っていました。不安ばかりが募りました。

 避難しているに違いないと信じ、近くでテントを張って生活している人に救護所の場所を聞きました。

 救護所となった学校を尋ね回りましたが、両親はいません。何カ所目かで近所のおっちゃんに会い、別の救護所で見た名簿に父の名前があったと聞きました。

 おっちゃんに聞いた救護所に駆け付け、避難先を記した名簿を繰りました。何枚もめくって、「狩野(かのう)卯之助(うのすけ)」の名前を見つけた時は、うれしくて、うれしくて、涙がこぼれました。

 三菱重工の社宅が避難先でした。

 走りました。早く会いたい一心でした。

 夕暮れ。ドアもないような社宅の部屋をのぞいて回ると、母が、横たわった父のそばに座っていました。

 生きていた-。「お母さん」と叫び、抱きつきました。お互いに泣き、言葉が出ませんでした。父も、泣いていました。

 母は髪の毛がぼさぼさで、父は右半身にやけどを負って、赤チンで真っ赤でした。後頭部から右腕にかけて焼けただれ、うじがわいているのを、母が取っていました。母は「ピカドン(原爆)にやられて、橋の上で倒れとったんよ」と父のことを教えてくれました。

 その日、班長が持たせてくれた米を炊きました。朝から乾パンを少ししか食べていませんでした。ご飯と、アサリと海水で作った汁。空腹だったので、一気に食べ終わると、母に「(妖怪の)餓鬼みたい」と笑われました。家族といることを実感しました。

 翌日の列車で母の実家のある姫路市に行きました。戦後、母は腎臓を悪くし、父はケロイドが残るなど、二人とも原爆の影響に苦しみました。広島の大勢の友達も消息が分かりません。

 もう二度と、戦争なんて起こしてほしくありません。(聞き手・斉藤正志)

【かのう・しげはる】1928(昭和3)年、姫路市生まれ。父の仕事の関係で、4歳から広島市に住んだ。原爆投下後に姫路市に戻り、材木店に勤めた後、山陽電鉄で働いた。75年から加古川市に在住。

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August 07, 2020 at 03:30AM
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