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半世紀後の再会 あの日の私を撮った人 原爆を背負って(10) - 西日本新聞

 背中と尻の傷痕が痛々しい私の写真。左腕は骨がむきだしになっています。背中の大部分に付着した白い物は、治療に使われていた亜鉛化軟こう。高熱が続いていたので、溶けてこびりついたのです。1945年9月、新興善特設救護病院でこの写真を撮ったのは、米海兵隊員だったジョー・オダネル氏(故人)です。

 当時23歳だったオダネル氏は占領軍のカメラマンとして佐世保に上陸。米軍の空爆による被害を記録するため、7カ月にわたって長崎や広島など日本各地を撮影して回りました。彼は長崎、広島で見た無残な光景に悩まされたといいます。46年春に帰国して除隊すると、撮影した写真とネガはトランクに入れて封印してしまいました。

 長崎、広島で残留放射能を浴び、後遺症に苦しんでいたオダネル氏がトランクを再び開けたのは89年。訪れた教会で、反核を訴え炎に焼かれるキリスト像を見たことがきっかけだったそうです。彼は長崎、広島の写真展を世界各地で開き、核兵器廃絶を訴えるようになります。その過程で長崎にもやって来ました。

新興善特設救護病院でうつぶせに横たわる私の姿を、ジョー・オダネル氏が撮影した写真

 93年11月、長崎を訪れたオダネル氏は、半世紀ほど前に自分が撮影した場所を見て回りました。その途中、かつて撮った少年が生きていることを知らされたそうです。彼は驚いて私を訪ねてきました。

 オダネル氏が撮ったものと同じカットの写真を、日本人カメラマンも撮影していました。その写真が長崎国際文化会館(現長崎原爆資料館)に展示されていた。自分の背中だということは分かりましたが、うつぶせの状態で身動きが取れませんから、誰が撮ったのかは知らなかった。オダネル氏が会いに来たときは、本当にびっくりしました。

 今は取り壊されてありませんが、特設救護病院になった新興善小学校に2人で行きました。校舎に入り、「ここに寝かされていたんだ」と私が話すと、オダネル氏も「そうだ、ここで撮ったんだ」と思い出したようでした。彼はもう一度、私の背中を撮り、「大変なことをした。すまなかった」と謝りました。原爆を投下した米国の国民として、強い後悔と心の痛みを感じていたそうです。

 オダネル氏は2007年に85歳で他界しました。彼が残した写真は、今も核兵器の恐ろしさを伝え続けています。(聞き手 久知邦)

◆   ◆   ◆ 

 「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が長崎原爆の日の8月9日、米国で発行されます。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募っています。クラウドファンディングへの参加はこちらから

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July 17, 2020 at 09:02AM
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