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戦後75年「私の父は誰?」 真実を探し続けるオランダの日系人たち - Yahoo!ニュース

「父が誰か、知りたい」「日本で父の墓参りをしたいのに手掛かりが何もない」……。日本から遠く離れたオランダで、そんな思いを抱き続ける日系人たちがいる。70代以上のお年寄りばかりで、多くは高齢になってから「父は日本人」という出生の秘密を知った。なぜ、そんな日系人たちがいるのか。オランダと日本、その高齢者たちが生まれたインドネシア。第2次世界大戦に起因する彼らの過酷な人生を追った。(文・写真:奥山美由紀)

オランダのアーネム市はライン川沿いの美しい街だ。そこで暮らすフレッド(75)は、あの手紙を読んだときの衝撃を今も忘れない。差出人は、隣町に住む叔母のアマリア。実母が他界し、何年か過ぎた2012年のことだ。

便箋にはこんなことが書かれていた。

「あなたは『ナカノ』という日本軍人の子です。戦時中、生活に困って、あなたのお母さんは日本軍人が出入りする飲食店で働いていました。そこで『ナカノ』と親しくなり、あなたが生まれた。お母さんは死ぬまで事実を秘密にしていたから、今まで私もあなたに伝えられなかったけれど」

フレッドは当時67歳。その年齢になって初めて、自らの出生の秘密を知ったのである。手紙には「もしあなたが軍服を着たら、『ナカノ』にそっくりでしょうね」とも書かれていた。

フレッドは「弟や妹に比べて、変わった子、醜い子と感じながら育ちました」と明かす。違和感の正体は分からず、家に居づらい。15歳で商船の厨房スタッフになって世界中を回った。横浜や神戸など日本への寄港経験もある。「日本ではなぜか、心地よさを感じました」とも語る。その理由も叔母からの手紙で分かった気がした。

日本人を父とする高齢の「日系オランダ人」は、フレッドだけではない。その数は約800人とも千人単位とも言われる。

1941年、日本軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まると、日本はフィリピンやマレーシアなどだけでなく、オランダの植民地だったインドネシア(当時の呼び名は「オランダ領東インド」「蘭印」)も攻撃して占領した。

敗戦までの約3年半、ジャワやスマトラなどの島々には、日本の軍人や軍属、民間人など約30万人が駐留した。大半は男性であり、現地のインドネシア系オランダ人女性との間に、多くの子どもが生まれた。

戦争が終わると、日本人は日本に引き揚げた。連合国軍総司令部(GHQ)の指令などにより、日本に戻れるのは軍人や軍属らの「日本人」だけであり、インドネシアの女性や子どもを連れていくことは基本的にできない。

日本の支配を脱したインドネシアは、再びオランダの植民地になった。そして今度はオランダ相手の独立戦争が始まる。インドネシアでは殺戮と混乱が続き、それまでの地位や財産を奪われる者も続出。そうした事態から逃れるため、残された女性や子どもらは、見たこともない「本国・オランダ」に向かった。フレッドと母も、その中にいたのである。

67歳にして「自分は日本人の子」と知ったフレッドは、その年、戦時中の史料を調べているオランダの団体に実父の調査を依頼した。しかし、手元に詳しい情報がほとんどなく、調査は進まない。日本の国立公文書館で公開されている日本の軍人・軍属名簿では58人もの「ナカノ」が見つかったが、それ以上、調査は進まなかった。

フレッドには厳しい「父」がいた。その「父」が養父だったことも、あの叔母の手紙で知った。養父は母と同じインドネシア系オランダ人。戦時中は日本軍の捕虜だったという。

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August 10, 2020 at 07:08AM
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